ブドウ栽培 - ワイン

ブドウとワインが考えさせてくれること

28 1月 2019

ブドウ畑とブドウ、そしてワインは太古の昔から文明と共にあった。

しかしながら、我々はそのたぐいまれな豊かさをまだ完全には理解していない。ブドウ栽培とワイン作りの悠久の歴史を知るために、教育的にも、また趣味としても各地に残る遺跡を訪ね、過去の文献にあたるのも良いだろう。

前世紀中頃(1950-1975)は、ぶどう品種についての理解が進み出した時期であり、それに応じて栽培方法もわずかに変化を見せはじめ、発酵とその後の熟成に関する知識は拡大していった。この時期は、技術者たちは畑でのブドウ作りに割く時間を減らす一方で、ワイナリーでの作業に重きを置き始めた時でもあった。ワイナリーでは、かつてないほど細分化されたワイン法によって認められた、様々な加工処理がおこなわれ、どんなブドウからでもワインが造作られるようになった。

最新鋭の技術と設備を駆使することにより、生産効率をアップしコストダウンを図ることを目指したのだった。

 

私はこの大きな変化を伴った歴史的な変革を目の当たりにし、実際に経験することができたのだが、この変化について注意を喚起した前の世代の代表者たる父の言葉を鮮明に覚えている。

 

「消費者がワインの味を決めて、それに合わせて大量に作るのなら、自分たちのようなワイン職人はもうおしまいだ。ワインがワイナリーで”作られる”ものになってしまったのか…。」1954年から74年の間をふり返ると、父の予言は的中したが、職人づくりを続けた我が農園は、祖父の代からの上得意のお客さんのおかげで存続できた。厳しい時だったが楽しい時期でもあった。多くの友人や親類と臨んだ思い出深い収穫。試飲はセラーで、一樽一樽じっくり行ったものだ。母が何日も手塩にかけて作った料理で、お客さんをもてなした昼食会。晩秋の夕方、赤いペンキで縁取りした樽を、グレーのOM社のトラックに3段に積み上げて、皆笑顔でゆっくりと去っていったものだった。

 

80年代に入り、徐々にではあるが、ブドウは本来の価値を取り戻し始めた。

畑での仕事が顧みられ始め、間引きをする農家もあり、ブドウ収穫量も減少しだした。かつて苦労した親やその上の世代はそれを見咎めて、落としたブドウを拾い集めていた…。

 

この時期はまた、ワインが単なる飲み物から、文化や喜びへと変わった時期でもあった。料理に合わせてワインを選び、ワインの産地やその成り立ちを知ろうとする愛好家達が現れたのだった。

ワインは世界的なステータスシンボルとなり、莫大な費用と労働力をつぎ込むことで、ワイン産地として一躍有名になった地域が出現し、世間を驚かせた。高品質なワインを世界のいたる所で生み出し、ワインの喜びやそれにつながる文化交流、ワインから派生する産業にまで目を向けた、目先の効く人々にとっては、まさにルネサンスのような時代となった。

 

その一方でもちろん、大量生産の、画一化されたワイン作りも続けられた。産地などお構い無しの、どこで作っても同じ味の特徴のないワインは、ワイナリーでの過剰なまでの加工と効果的な宣伝だけを頼りにして、現在にまでいたる。

 

デュオニーソスのキュリクス(杯)
(紀元前550年)

ギリシャのアンフォラ。ブドウの収穫と
ワイン造りがモチーフ。(紀元前540年)

 

この時期は、本物であることと、透明性に対する欲求が高まっていた時期でもあった。おまけなしでは売れないような菓子が売られ、ありとあらゆるところでまがい物、偽物が横行し、その範囲は住宅から衣類、環境、食品、果ては旅行業界までと、例をあげれば切りがない状況だった。だからこそ正真正銘、混じり気のないもの、そして自然に作られたものへの欲求が生まれたのも当然でもあった。

我々の食生活においてもこういった食品を摂ることの大切さについて考え直され、健康は食からということも言われ始めた。

健やかな食生活と健全な社会性を保つこと。そういう生活をしていれば医者の世話にはならずに、元気で暮らしていけるのだ。

 

食品業界では、原産地表記に関してザルのような法律も適用され、消費者は自分たちの食べる肉や穀類、牛乳、オリーブオイル、野菜や果物の産地を特定するのが難しくなった。ところでワインの出所はどこまで確かなのだろか?

 

ぶどうと同じく、ワインの産地も作り方も様々だが、大部分はソフトドリンクの志向と同じく、分かりやすく画一化された味に向かっている。

一方で、このワインは長期熟成に向いているとか、何年は当たり年だとか、幻のワインの垂直試飲やら、オークションでの超高額ワインなどについてもよく聞くが、そういうワインは本当に本物たりうるのか?亜硫酸塩のような危険な保存料は入っていないのか?消費者はこういったことをしっかりと知らされなければならない。

 

ワインの本当の価値とは、保存料や添加物しで作られたかどうかだけで判断され、そうでない場合は明示されなければならない。ローマ帝政期の農業著述家、コルメッラの著した「De Rustica」の一節 にはこうある。

 

 何かを加えることで、ワイン本来の味を変えてはならない。添加物なしで熟成できるワインこそ最高のものだ。極上のワインとは、ありのままで、この上ない喜びを飲む人にもたらすものを指すのだ

 

ほぼどのワイン生産地域でも、ワイン経済の発展とともに、ぶどうの単一栽培に切り替わり、それに伴う多くの問題が浮上している。今こそ、しっかりとした環境保全策が必要であり、規制の強化と環境汚染が地域に与える影響を抑えるための、真摯な対応が求められる。

ぶどう畑はその美しさとは裏腹に、土壌を消費し汚染する。

この点を深く考慮し、限りある資源を浪費しないぶどう栽培を行わなければならない。より良いぶどう作りとワイン作りのためにどうすれば良いか考えてみよう。

 

  • ぶどう畑は、永続的に栽培を続けられる環境にあり、その土地ならではの味わいを醸し出すぶどうを生み出すものでなければならない。生産者はその土地の土壌や品種の特徴や、年ごとに変わる気候条件がぶどうに現れるような栽培を、伝統的に栽培が行われてきた土地で行う。
  • ぶどうの成長からワインの味にいたるまで、それを左右するのはぶどう(の木部)ではなく、土地であることを忘れてはならない。樹齢の古いぶどう畑を大切にし、土地に根付いたぶどうが生み出す、産地や年ごとの違い、その土地固有の品種の特徴的な味わいといった、本物のワインの魅力を消費者に知ってもらおうではないか。これは文化的にもより魅力的な選択である。
  • ワインとは、美味しい以前に純粋、つまり一切の加工を排除した、素のままで、混じり気のないものでなければならない。その上で美味しく、体に良いものであればなおさら良い。ワインとは感動であり、その不思議な力で飲む人の心をも開く。嘘や誤解を招くような広告や、時代遅れの宣伝でワインの本質を乱してはならない。ワインとは壮大な文化財であり、単に金儲けのアイテムではないのだ。敬意が払われて然るべきであり、より成熟した態度で接しなければならない。
  • 現行のワイン法に代わって、取り違えようのないほどに明確で少数の規定に集約した代替案を作成し、かつ遵守しなければならない。現行法規は曖昧であり、消費者にとって全く役に立たない。信じられないことに、他のあらゆる食品で表記義務があるにもかかわらず、現行法では消費者がワインラベルから何が添加され、何が除去されているのか知る由もない。ワイン業界にはいっそうの透明性が求められている。よく目につく形で、それぞれのブランド名の下には”ボトリング業者” なり ”ワイン工場”なり、はたまた ”ワイン職人”など、出所も明示されて然るべきだ。
  • 学校教育でも持続可能な農業の重要性や、地域独自のぶどう栽培とその歴史的価値、そこから生まれるワインの重要性を教えるべきだ。既存の科目に加え、持続可能な経済についても学んでほしい。農業に関する教育は複雑であり、健康、持続性の問題も含むから簡単ではない。従ってしっかりとした総合的な教育が必要だ。今日の、そして未来の農業というが、今ある資源は全て過去の遺産であり、その大切さは、教育を通じてしっかりと学ぶ必要があるのだ。
  • わずか数十年の間に、昔当たり前だった農業の基本が省みられなくなってしまった。その一方で目先の利益だけ追求し、その結果どの作物でも病害は明らかに深刻となり、誰が見ても地力は衰え、関係者は一様に情熱を失っている状況だ。
  • 専門教育をしっかりと受けた若者たちが、農業を始めることは確かな未来の証だが、経済的なインセンティブがあったとしても、彼らの農業参加がしっかりとした覚悟の上なのかどうかを見極める必要がある。若者の能力とたゆまぬ研鑽は、彼らの将来とそしてその先の世代にも必要な資産である。
  • 最後に重要なことを。生産者は、ワインづくりの様々な過程で発生する環境負荷を計測する機器により、消費者にどういったワイン作りをしているのか、具体的に知らせることが可能だ。それがカーボンフットプリントの計測であり、ライフサイクルアセスメントである。

 

 

成熟とは子供の頃遊びに傾けたあの真剣味を取り戻すことである

フリードリヒ ヴィルヘルム ニーチェ

 

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